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                            オヤジの思い出 

 昭和392月に、先代の社長 (オヤジ)が創業した。オヤジが39歳のときだった。
私が、中学校3年、弟が小学校6年の時である。私が当時のオヤジの歳をはるかに越えた今、創業当時のオヤジを思うと胸がいっぱいになる。将来に対する不安、しかし未来への夢・・・自然と涙が出てきてしょうがない。

オヤジは、ペンチとドライバーで自転車にカゴをつけての船出だった。                  

 ある工場の電気保守の仕事をしていた父は、町に電気工事をもとめても、お客様がいないのは、当たり前だった。何ヶ月も電話の前で、仕事を待つ辛さ、ほんのわずかな友人への営業、また町方の電気工事の技術習得など時間とともにあせりがでてきた。
仕事の第一号は、近所の人がいってきてくれたコンセント
1個の増設工事であった。

しかし、この第一歩がよほど嬉しかったのか、何度も何度も私は聞かされた。

商いの原点がここにあった。昭和39年春のことである。

 電気工事を一人でやるのは、大変なことである。普通は一人が一階の床から電線がからまらないように天井へ入線して、天井裏にいるもう一人がその線を取って接続箇所まで延線して接続する。人を雇う余裕がないオヤジは、そのすべてを一人でやらなければならない。床と天井裏を何度も上り下りしたことだろうか。私は、私の修業時代にいやというほどこのつらさがわかった。
このようにしてオヤジは、一人で工夫をしながら何とか短時間で仕事をこなしていくことを「体を張って」覚えていったのである。
 

昭和42〜43年頃になるとオヤジは、自転車から50ccのバイクに替わっていた。
とはいえ工事をする時の工具、材料などを運搬するのは大変なことである。照明器具などのようにかさばる物は、仕入先から現場へ持って行ってもらうとしても50ccの荷台では積める物には限界がある。一番困ったのは、はしごである。オヤジは工具箱を工夫して独自の整理方法で実にコンパクトに最小限のスペースに必要な物を50ccのバイクに積んだ。
冬、ジャンパーの上からテスターと絶縁抵抗器を、両肩からたすきにかけて、腰にはペンチやドライバーなどの腰道具を巻きつけ、ヘルメットをかぶってバイクに乗って現場へ行く後ろ姿は、巌流島へ戦いに行く宮本武蔵そのものに私には見えた。


創業して5年程たった昭和45年ごろになると、2〜3人の大工さんから定期的に新築住宅の電気工事を言ってきてくれるようになった。なんとか生活も安定してきていた。
しかし、オヤジは、何となく不満ができてきたのである。

それは、「お客様の顔が見えない。」ということである。
大工さんから電気工事という下請けの仕事をもらっているのであって、お客様から仕事をもらっているのではない。

お客様への直接的な提案や、顔を合わしての話ができないのである。なんとかしてお客様へ直接的な商売をしたい。しかし、このことは、下請けとしての宿命であって当時は悶々としてばかりでどうしたらよいかわからない日々を過ごしていたのである。 

昭和40年代の後半ごろから給湯器に深夜電力を使用した電気温水器が普及し始めた。
オヤジは、これだと思った。お客様と直接話をしてお客様から直接買ってもらうという「お客様の顔が見える」商売のきっかけとしたのである。

電気温水器は、当時としては新しい給湯器でありあまり他の業者が扱っていなかったことと、電気工事としてオヤジの知識がぴったり一致したのである。

お客様と直接お話をして納得していただき、設置工事を完了して、お客様から「なかなか快適ですよ。」といわれた時の喜びこそ、商売の原点であった。 

ある時、電気温水器をお使いのお客様から、「風呂の調子が悪いから見に来てちょうだい。」と電話がありオヤジ(先代社長)は、出かけて行った。

電気温水器は、正常であった。ところがお湯の配管が土の中にあり、この鉄の配管が破れてわずかであるがお湯が漏れていたのである。だから後でお風呂に入った人がお湯が足らなくなるのである。電気温水器を使用しているお客様は、てっきり電気温水器が悪いと思ってオヤジに電話してきたのである。「電気温水器は悪くありません。配管が悪いから施工してもらった水道屋さんに言って下さい。」とオヤジはお客様に言いかけて考えた。お客様は、電気温水器を直してもらうという物理的なことを言ってきたのではなく、お風呂に入りたいという機能を直してもらいたいのだ。
 オヤジの転機であった。お客様の生活全般を満足してもらうような総合リフォーム業者になろう。

昭和50年のことである。 

オヤジ(先代社長)は、「仕事とは直接ペンチを握って現場で仕事をすること」が仕事と思っていた。しかし営業をしないと仕事の継続や拡大は望めない。営業したからといってすぐ仕事につながらない。だから営業に費やした人役は、誰にも請求できない。オヤジ(先代社長)の目から見たら請求書が出せない事は仕事ではないと言う訳だ。このことでいつも私はオヤジ(先代社長)とケンカした。その当時のことを家族は「一番イヤやった」と言う。それが突然オヤジ(先代社長)は、何も言わなくなった。営業の重要性を認めたのではなく、「自分がいつまでも元気でいるとは限らないから次の世代のやり方もあるのではないか?」と思ったのではないだろうか。 

今から20年程前、あるビルの電気工事をビルのオーナーから直接請け負いました。

一般的な請負形態として、お客様であるオーナーは、元請の建設会社に一括発注してその一部である電気工事を、その元請の建設会社から下請けするのが一般的な方法です。しかし、このオーナーとオヤジ(先代社長)は古くからの友人でしたので、電気工事を総金額から抜いて直接オヤジ(先代社長)に発注してくれたのです。

ところが、照明器具、空調機器、リフトなども電気工事付帯としてオヤジ(先代社長)が取ったものだから元請の建設会社は面白くありません。ある時その元請の建設会社社長が現場にきて、オヤジ(先代社長)に取っ組み合いをせんばかりに怒り散らすのです。オヤジ(先代社長)はというと、「すいません」「すいません」というばかりで、なんともぶざまなのです。40分ばかりさんざん怒鳴られたあげく建設会社社長は帰っていきました。後はなんとも言えない重苦しい沈黙の後、「喜代志よ。負けるが勝ちということもあるがぞ。」それ以上オヤジ(先代社長)は何も言わなかった。

この出来事を思い出すたびに、涙が出てきてしょうがない。

最近、思うところがありまして「これからの住宅産業の販売戦略・・・メーカー、卸、工事業者の戦術」というタイトルで小冊子を執筆しました。

その最後にこのような文章で締めくくりました。

「昭和39年2月に先代社長(オヤジ)が自転車にかごをつけてペンチとドライバーを腰に巻きつけての創業であった。私が中学校3年、弟が小学校6年だった。当時オヤジは39歳。今私は59歳。当時のオヤジの年をはるかに越えた今、当時39歳のオヤジのことを思うと、涙が出てきてしょうがない。子供の教育のこと、生活のことなど震えるほどの恐怖の中に一筋の光明としての希望や夢を見出して船出したにちがいない。まんじりとして眠れない夜を何日も過ごしたにちがいない。また悔し涙に暮れた日も一日や二日ではなかったろう。いつも私はオヤジの背中を見ていた。明日の仕事はあるろうか』支払いは大丈夫やろうか』従業員に給料は払えれるろうか』このようなことを背中が語っていたような気がする。」

 ・・・昭和63年5月 オヤジは63歳で亡くなった。昭和の時代を完璧に過ごしたのである。 

今年で創業43年目になります。偶然であろうか、オヤジが創業した年の39歳と同じ39歳で私は社長になった。

私が社長になってから、あっという間に19年がたった。

将来をになう人材も育ってきた。もっともっと人材を鍛え上げて「次世代へのバトンタッチ」が、今の私の重要な仕事である。
 

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